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2012年 01月 26日
今私がこだわっているのは、「こだわり」という内容だ。 誰しも、こだわりは持っているはずだ。でも、こだわりを持っていても、こだわりは、いけないことだと、こだわりを抑えている人は多いだろう。 そこで、私は、「こだわり」の勧めを今日は書いてみたい。 こだわることこそ、われわれの元気の素をくれているらしいということを書いてもいいだろう。 微妙なのが、とらわれである。こだわりもとらわれもたぶん、根底の論理展開は同じなのだろう。でも、なぜか、大きく違うように思う。 それは、夢の世界はでたらめだが、それを昼間すれば、おかしくなってしまう。寝ている間においては、夢の世界は必要らしい、人間には。 どうも、こだわることは、生き方に元気を与えてくれるらしい。しかしそれは、食べ物に関しては、好き嫌いになってしまうから、生物学次元では、他の問題が生じてくる。 でも、精神性レベルでは、こだわりというのは、なかなか大きな意味合いを持っているらしい。 そのようなことを今、また、おかしな私は考えている。 どうしても、私は世間の一般的な人からは、おかしな人だろう。どうしても、私はおかしなことにこだわってしまう。 しかし、こだわりは大切なことらしいと、データ分析から教えられると、私も元気が湧いてくる。 人と摩擦を起こすこだわりと、誰しもの私のこだわっている次元とはまた別の次元なので、そのことは言っていない。もし人と摩擦を起こすなら、その世界のこだわりは、周りの人に強い迷惑を起こすから、それは本人にとってだけはいいのだろうが、周りは迷惑をこうむるだろう。 こだわり。どうでもいいことであっても、それが他人に迷惑をかけないなら、こだわりを持ったほうがいいらしい。私の拙いデータ分析から、そのようなことを今言われている。 面白いものだ。私が考え、創りだした分析方法。そして、その結果、私が言われていること。それは、こだわりを持つことは大切だよと。しかし、そのように言われると、私には反論は出てこない。 評論家的な人たちの場合、何でも反論できるだろうから、なにか言うだろうが。 しかし、データ主義の私には、反論はない。それよりも、そうなのだと、納得してしまう私がいる。 これは、大学時代からの私でもある。 私は、データが大好きだ。口下手の私には、信じられるのは、データでしかなかった。 そして、信じて疑わない人たちへの私自身を守る世界は、データでしかなかったことを思い出す。 大学紛争の真っ只中で、運動をリードしていた私でもあるが、ノンセクトの私には、いろんなセクトの信じきっている考え方は、分かるような気はあるが、分かりきらなかった。それよりも、あのように信じきることはどうして出来るのだろうというのが私の疑問であった。今でも、そのような人たちへの疑問は同じだ。 今も、評論家的な人たち、政治家の信じ切った姿。その根底は、ディベートらしい。説得らしい。 ディベートとは、自分の立場をいかに相手に納得させるように説明するかという、説明の仕方に本質がある。 だから、私は、今もそのような人達の言葉は信じられない。私は今もデータを追求している。 そして、私のデータ分析で、その結果から言われているのが、「こだわり」は大事だよと言われている。 そのように言われると私には反論はない。でも、私の作った分析方法による結果だからかもしれないが、反論はない。 浮かんでくるのが、こだわりとは、とらわれと全く同じメカニズムだよねということである。 こだわりと、とらわれ、この両者の関係性については、しばらく考えてみたい。とらわれは、人間の主体性を奪ってしまう。 でも、密かにあるのは、宗教とは、こだわりなのじゃないかなということである。そして、そのこだわりは、恐ろしいほど人間の精神には強い力を持っているのかもしれないということである。 例えば、験を担ぐということでもある。 2012年 01月 16日
歯槽膿漏で、エイヤーと、二本抜いてもらった。その後、痛みが引くまで、一本抜いてもらったよりも、痛みのなくなるのに時間がかかった。それでも、一本ずつ抜いてもらうよりは、私の恐怖感は極端に少なかった。 その後、歯茎は微妙に変形するらしく、今までの入れ歯では、歯茎がすごく痛かった。 今日その部分を調整してもらった。かなり調整していたように思う。 やっと今、ややこしい歯がなくなったため、上の入れ歯、下の入れ歯で、豪快に硬いものが食べられる。以前に比べれば。 そして、その微妙な変化の中で、痛みのなくなったのを実感して、喜んでいる。幸せだと。 生きている実感、幸せというのは、非常に微妙なものなのかもしれない。実感する変化を持って、幸せと感じたりするということも大きな要因かもしれない。今の私は、そのように感じている。 痛みほど、実感する大きさを超えるものはないだろう。 そして、死の恐怖もあるが。 長く生きても、どんなにすごい人でも、寿命は超えられない。 寿命を大前提において、人生を考えるとき、生きている実感とは、大きな存在である。 お釈迦様は言った。私は死んでも、生きていると。 確かに、魂は生きるのだろう。でも、そこまでの魂の実感に乏しい私には、その言葉は使えない。 せいぜい、寿命の中で、いかに生きている実感を高めるかが、私の生きている間の課題であろう。 みんな、強く生きている実感を持ってほしい。 痛みからの私の言葉である。 2012年 01月 06日
私にとっての初めての、新しい年の日が始まったらしい。 ここそれなりに前からの数日、歯槽膿漏と格闘中だった。 今日、歯医者さんに緊急でお願いして、二本抜いてもらった。 二本も抜いてもらったから、かなりの痛みが続いていたが、その後は、今は、酔っているせいか、痛みは感じない。 本当なら、飲んではいけないのだが、今まで、どんどん歯槽膿漏のために、抜いてもらって、その夜いつも飲んで、大丈夫だったから、今も飲んでいる。明日はどうなることか、怖い気分もあるが、まあ、酔った気分で、まあいいだろう。 でも、面白いのが、抜いたところは、二度と歯槽膿漏にならないということだ。抜かないと、その歯は、歯槽膿漏の危険性をいつも抱えている。 今日、私は、自慢じゃないが、二本も抜いた。だから、一本抜いたときに比べて、抜いた後の痛みの減り方は、遅い。二本抜いたから、その部分は、これからは歯槽膿漏にはならないだろう。 これをもって、根治療法というのだろうか。 ただし、歯の数はどんどん減っていくが。 そして、今日、やっと、新しい年で、気分のいい日を迎えようとしている。 2012年 01月 03日
毎年、毎年、新しい年がやって来る。 この区切りで、新たに何を私は誓うのだろう。 確かに、新たに誓うことによって、あなたらしい力が湧くような気がする。 今年も誓おう。でも、今年は、去年の新年とは大きく異なる。 私は、還暦を過ぎたが、去年のような年を経験したことはなかった。 去年は、自然現象との関係の持ち方ということを問われたように思う。 私は戦後は知らない。でも、今年は戦後のようであり、もっとすごい年でもあるように思う。 なぜなら、震災後の復興ばかりではなく、放射能との向き合いが求められているからだ。 放射能の問題を自然科学の観点ばかりで捉えていても仕方が無いように思う。でも、捉えないといけないことはわかるが。 私は、この間の問題で問われているのは、寿命とはということに通じる問題のように思える。 このようなことを宗教を信じている人たちに問えば、わかったようなことを言う。でも、そうではないだろう。 宗教家にとってはそれでいいが、我々庶民にとっては、放射能は自然科学の問題であるが、それでも、自然科学と人文科学に関わる問題である。 自然科学の命と人文科学の寿命の問題だろう。 自然科学の人達にとっては、生き物には寿命があって、それをいかに迎えるかの大変さに関しては、ほとんど関心はないようだ。宗教家はそればかりだ。 でも、そうではなく、両方を加味したことを考える必要に直面しているように思う。そのなかで、どのように、現実を考えていくか。どのように生きて行くかということを問われているように思う。 自然科学では、確率論。宗教家では、あの世の世界の永遠論。 確率論でもなく、私の存在というものを前提にしたとき、私という個別の存在はどのようになるのかということである。そして、それは、宗教家の永遠論でもない。 孤独死の問題が問題になるが、人は死ぬときは常に一人である。その後の問題が、孤独死の問題だろう。死んでしまった人にとっては、発見が早かろうが、遅かろうがそれは問題ではないのではないのだろうか。私は死んだことはないので、これ以上断定はできないが。 でも、自然科学のあまりにも人間的な冷たさについて超えるためには、やはり宗教が必要なのだろうか。それとも、第三の道はありうるのだろうか。 私はそこに強い関心を示す。 第三の道はもしかしたらあるのかもしれないと。 でも、その第三の道は妄想の世界であれば、それも困ることになる。そうではない、第三の道はありうるのだろうかと。 妄想の世界というのは、恐ろしいほど怖い世界でもありうるし、信じられないほどの気楽な世界でもある。 究極の怖さを超えられるのは、妄想でもありうるし、まだまだわからない未知の世界でもあるかもしれない。 実は、宗教と妄想の世界との違いは、今持って、学問的には分かっていないことなのだ。 2011年 12月 30日
今年もいよいよ終わりに近付いている。 今年が終わり、新しい年が始まる。 この区切りは、人間が、人間の知恵で作ったものだ。 でも、「区切り」、「節目」って、人間には必要な気がする。 「区切り」、「節目」において、人間は、過去を振り返り、新たに前に向いて、決意をする。 「区切り」って、そのような意味合いを持っているらしい。 今年はどのような一年だったのか。来年に向けて、自分はどのように生きようとしているのかと。 何も、カレンダーは、自然現象の中にあるわけではない、人間の世界で作ったものだ。でもまあ、自然現象を利用して、人間が作っているものではあるが。 みなさんは、どのように、今年を振り返りましたか。そして、来年をどのように生きようと思っていますか。 このような発想は、人間だから、行うことなのだろう。 まさに、意味の世界を、意味としてのストーリーの世界を生きているが故に、生じるのだろう。 今年は、自然現象の世界と、人間の世界がクロスする、すごい年だったように思う。来年からも、まだ放射能という、自然現象は続く。自然現象には、カレンダーはないから。 そのような、自然現象の中で、人間はどのようなカレンダーを作っているのだろう。まさに、意味の世界だ。ストーリーの世界だ。ストーリー的意味。 私は、大学受験までは、歴史の科目は大嫌いだった。今では、変わってしまった。ストーリー的意味の世界には非常に興味を持っている。人間の意味、意義、価値の世界は、まさに歴史の中において形成されるものなのだろうと思っている。 だから、高校までの歴史の科目の教科書の問題であるのだろう。意義、意味などを中心に据えれば、テストで評価できないから。 どうも、評価できるものだけが、表に現れすぎているようだ。 評価できないものもある。そして、そこにはすごい世界もある。 評価できる世界とは、客観的という言葉のもとに、記憶だけが表立っている。 それはみんな分かっているから、考え方だ、独創性だというが、その方向に安直に進めば、ただただ目新しい物が素晴らしいということになってしまう。ここが、難しい。 いろんな基準、次元がかち合って、それらを統合して考える必要があるのが、人間世界なのだろう。そこが難しい。 でも、この難しさ、訳の分からなさ、それに向かって、分からない、分からないと言いながら、唸り続けたいものである。 |
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