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2011年 10月 03日
ところで面白いのが、五木寛之の書いた、「鬱の力」。あの人も、この世があまりにも、ポジティブ思考、ポジティブ思考ということに、反抗したのだろう。 ポジティブ思考、そんなことはあたりまえだ。でも、行き過ぎれば、脳天気になってしまう。だから、言ったのだろう。鬱の力と。 鬱人間としての私としては大賛成だ。 今の世の中、ポジティブ思考が行き過ぎている。これは、つまりは、行き過ぎれば、脳天気ということになる。そして、全て、早い者勝ちということになる。全て、ハピーならいいのだろうか。 ハピー、ハピー。 これで、いいのだろうか。 鬱の勧めは必要だろう。それを、五木寛之さんが書いてくれた。 やはり、それぞれが、それぞれとして、必要なのだろうと思う。鬱が行き過ぎば、ポジティブ思考もいいだろう。 でも、今、テレビを見ていると、ポジティブ思考。そして、それを極端に展開した、子どもの世界になってきているように思える。 子どもは、鬱では困ってしまう。でも、大人が、子どもでも困ってしまう。 やはり、大人になれば、冷静に、状況を眺めることが求められるのだろう。 だから、ポジティブ思考、鬱の力、というような発想は、子どもの世界を大人が生きている状況から、展開されてくるのだろう。 どんどん、大人と子どもの違いがなくなってきているように思える。 せめて、寿命の近づい来ている人間なら、子どもとの違いを示したいものだ。 いくら、子どもの真似をしても、寿命は伸びないだろう。 2010年 03月 11日
私が今言われていること。「あなたはと、ということが大きな一つらしい」という言葉らしい。これは、コンピュータによって、まとめ上げられた言葉だ。だから今、コンピュータから、チャレンジされている自分自身を感じる。このことに対して、私はどう対応するのかと、いろいろ迷っている。 インターネットの世界では、様々な反応が来る。それに対して、どう反応すればいいのだろうか。右からも、左からも、上からも下からも。 そのプロセスの結果、当然、私はこれでいいのだでしかなくなってしまう。なんの私のための役にも立たなくなってしまう。悲しいものだ。 私も成長したいが、それでも、成長のためにいろいろ言われることが、私をつぶすことにもなるから、それを排除しようとしていると、結局は、私に感じる違和感の意見は、すべて排除する結果となってしまう。悲しいことだ。 でも、これが現実なのかもしれない。 2009年 11月 12日
泊まりがけの旅行が、私にはできない。なぜだろう。 これだけ日本中を住むところとして回ってきた私なのに、泊まりがけの旅行ができない。仕事では、泊まりがけの出張は数え切れないほど、してきた。 旅行のブログを見ていると、きれいな景色、おいしそうな食べ物。いろいろなものが私の気持ちをそそる。でも、私には、なぜか、泊まりがけの旅行ができない。 仕事ならできるだろうが。 私は若い頃は、韓国にも旅行してきた。今の私には、それは無理だろう。 テレビがないということだろうか。でも、ホテルにはテレビもある。パソコンだろうか。そうかもしれない。あるいは、外に出ると、様々な身の回りにある簡単に利用できるものがないという状況なのだろうか。そうかもしれない。 私の部屋全体そのものを旅行と同時に移動させることができるのなら、私にも泊まりがけの旅行ができるのかもしれない。 そういうことなのだろうか。 ということは、もしかしたら、私が生きているということは、それには、私の部屋の環境をも含む形で、はじめて私が生きているということになるのだろうか。そうかもしれない。 こんなにも同じところでないと、落ち着かなくなってしまう私であるのだろうか。そうかもしれない。 私には、自由に泊まりがけの旅行ができ、海外旅行なども楽しめる人たちのことをうらやましく思うところがある。でも、うらやましく思うだけで、私には、たぶんできないだろう。あるいは、できるようになるのだろうか。それは分からない。 日本中をこれだけ動いてきた私だから、もう、それはいやだということなのだろうか。かもしれない。 自分自身というのは、なかなか分かりにくいものだ。 2009年 06月 03日
ネットサーフィンをしていると、どうしても明日の天気が気になってしまう。 明日の天気って、未来なのじゃないの? と、私に話しかける私がいる。 そう、私は、過去を振り返って、深い深い世界に入りたいと思っているし、思っていた。 でも、どうしても未来が気になるようだ。 過去を振り返り、深い深い世界に入りたいと思っている、意識としての私。それに対して、明日の天気がどうしても気になってしまう、私の無意識。 意識、無意識、そして、その間にある下意識。精神分析用語では、下意識のことを前意識と言うが、それらの世界を激しく行き交う私である。 そして、あることを発見したと最近感じている。感じているだけだから、そこまで専門的ではないが、個人的に感じていることがある。 これは、全く間違っているかもしれないが、人は、ある時点で、その一点に入り込むことがあるようだと。そして、その一点において入り込むが。このとき、様々な言葉でこのことが言われているように感じている。 それは、集中の世界。生きているという実感を感じる世界。そして、物理的時間を無視してしまう意識の世界のように思う。 「一点突破」という言葉は、私の好きな言葉の一つである。この一点突破において、時間軸は、物理的時間軸が心理的時間との関係で変化するように最近の私には思えてきている。まだまだ、そのことを信じるためのデータは不足しているが、実は、今まで言われているいくつかのことを総合すると、そのような世界があるのかもしれないと思っている。 今、私は、物理的時間に関心を持っている。それに対して、心理的時間とは何だろう、論理の世界における時間とは何だろうと考えている。 哲学の世界における時間への、物理の世界の時間に対する疑問は、数学的、あるいは自然科学における考え方において、破綻しているように思える。 今も言われているのが、打った矢は、的に当たらないとい話がある。これを、論破しようとすると、なかなか難しい。現実には、打った矢は、的に当たるのだけれども。 哲学の世界における物理の世界に対する疑問は、常に、そこには「無限」の概念が入り込んでくる。「無限」が、常に、「無限」において、同じであるという発想が入り込んでくる。そのことによって、詭弁的であるのだろうと思える世界が展開されていく。 「無限」は「無限」として、同じものなのだろうかということである。「無限」に対して、物理学の世界では、要注意だと書いてある本を読んだ。その本では、「無限」には、いくつかの種類があると書かれていた。たぶん、そうなのだろう。 無限はないのだと強く言っている世界が、物理学の量子論の世界である。 でも、量子論でなくても、数学の世界でも、無限における質的な違いはこれから、明確にされていくだろう。 無限とは何かと。そうしたときに、私が考えている物理学の世界における時間と、心の時間軸の違いにおいて、まさに、無限を利用して、哲学の世界では、だから、矛盾がいろいろ起こって来ると言っている世界が、解明されてくるだろう。 そこで、今私が考えている心における時間軸。それは、常に人は、今の時点において、生きている。そのとき、今とは何かということが問題となってくる。今とは、物理の世界では、一瞬であるが、心の世界では、今こそが、最大の広がりを持った世界なのだろう。今が、永く永く続いているのだろうと思える。 心の世界では、過去も今であるように思えてきた。 なぜ、そのように私が言うかというと、過去は、今の時点において、あぶり出されてきた事柄が過去なのだということだろうと、今の私は考えている。物理学的に過去をとらえれば、それこそ、無限の現象の存在であろう。 ここで、またまた、私が重視している人間におけるとらえ方の根底メカニズムである。人とは、意味において、物事をとらえる。 意味とは何だろう。過去をとらえることにおける意味とは、それこそが、物語的形式でまとめ上げるためのとらえ方、そこにおける位置づけが、意味なのだろうと、今の私は考えている。 私たちは、小学校時代から言われてきた、その言葉の意味を述べよと、しょっちゅう試験に出てきたが、あの意味とは、あれには、様々な側面が入り交じっているように思える。 それよりも、人が、人であるが故に、本能的に持っている、意味づけとは、まさに、物語的形式のとらえ方であろう。 なぜ、人が、物語的とらえ方ができるのか、私には全く分からないが、でも、歴史的に何千年も昔の人も、それぞれの現象を捉えているとらえ方は、物語的形式のとらえ方であるように思える。蛇足だが、そのとき、やはり、物語的形式の最大の、全体を統合するものとして、神を想定したのだろう。 そうであるが故に、心の世界では、物理時間における夢を見た時間とは、まったく対応しない、夢のなかでの時間的感覚が生じるのだろう。 夢は、現実世界と全くかけ離れた、空想の世界であるとは、これに関しては、物理学の人たちでも、全く言えないであろう。人間である限り、あるいは、動物も夢を見ている。これは、そのようなことがあると言っているだけで、物理的時間を、それは違っているとは言っていない。主観の世界と客観の世界との関係性についてだけ言っている。 永く永く夢を見たと本人は述べているが、現実に脳波によって測定された時間はほんのわずかな時間であったという報告は沢山聞いている。 そう、それこそが、人には、もともと物事をとらえるとらえ方の根底に物語的形式のとらえ方が、あるのだろう。物語でとらえれば、それは、三段論法になり、三段論法の連続になって、その数が増える。その数によって、人は、時間をとらえるため、時間が長くかかったはずだととらえているようだが、現実の時間は、ほんのわずかであったという違いはあっても、不思議ではない。それは、人は、物語的形式の思考パターンを持っているためである。 2008年 09月 30日
デジカメを持って、散歩していたら、急に、「道」というテーマで、写真を撮りたいという気分になった。今までは、写真を撮るとき、テーマというのは浮かんだことはなかった。でも、そのように、私の無意識がいうのだからということで、今日は、道をいろいろ写真に撮った。 道、寄り道、階段の道、近道、砂利道、水の道、都会の道等々、道というのには、いろんな道があるものなのだなと、今日、つくづく思った。 身近にあるいくつかのそれらの道をアップする。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 私は、ここ数日、時間軸というものに、非常に関心が湧いている。今までは、人間は、直感的に思考ができるのは、二次元であるということについては、分かっていた。でも、どうも、われわれをいろいろ惑わし、深い意味を持っているように感じられるものは、どうも時間軸であるらしいと感じてきた。一般的に、時間軸を加えると、それは四次元の世界ということになる。三次元は、二次元の組み合わせで、われわれ人間は直感的に理解できる。でも、四次元は、時間軸を加えたものであるとは誰しも常識的に、知識としては持っている。でも、この時間軸というのは、なかなかくせ者である。時間というのは、一方通行で、未来に向かってのものしか存在しない。過去という発想は、二次元の世界を用いて考えたときに出てくるものである。 それでは、時間軸は、時計の物理的なものなのだろうかと、最近、つくづく考えている。物理的な時計の時間軸というのは、これもまた、二次元を持ってきて、時間軸を理解していることである。 最近、どうも、この時間軸といわれるものは、そのような物理的な象徴的にいわれる時計の時間軸ではないのではないかと思っている。相対性原理なども、ピタゴラスの定理と呼ばれる、二次元の延長の三次元的発想で理解できるらしいが、物事は、いかに物理学であっても、人間を中心に据えて発展してきたものである。そのように考えたとき、時間軸は、そこにはまた違ったものが見えてくるように思えてきた。 なぜ、歴史をわれわれは、私の場合はその意味をあまりしっかりとはとらえていないが、にも関わらず、大事にするのだろう。歴史は、時計に象徴される時間の流れとは異なっている。歴史は、時計的な物理的な時間の流れではなく、物事の順番という流れを根底に置いているもののように思う。確かにそれぞれのものが熟すためには、一見物理的時間に似たものを要するが、それは物理的時間ではないように思う。物事の順番と、われわれがまだはっきりとはとらえ切れていない、物理的時間に似たような何かがあるのだろうと思う。 今、私は、このことに非常にとらわれている。 目的地までの時間は、直線を歩いたときには、最も時間が短い。でも、遠回りしたときには、時間はかかるが、その間に何かが生まれている。遠回りによって、何が生まれるかについて、人間の直感的思考は、論理的に見通せない。しかし、確かに、何かが生まれてくる。それが、物語が人に喜ばれる意味合いを持っているのだろう。物語は、日本では、起承転結と言われている。西欧では、どうも、四つに分解されるのではなく、前中後と、三つに分解されるようだ。私は専門家ではないので、これには自信はない。 しかし、それぞれに「展開」と呼ばれる言葉が用いられる。展開というと、三段論法が、有名だけれども、どうもそうではないように私には、最近思われている。そうではなく、良い物語のなかで展開される世界は、非常に人には納得がいくように思える。どうも、そのような、時間軸というか、順番によって生じてくるものがあるらしいと今の私は感じている。 われわれは、まだ、意識化して、明確化はできていないが、どうも、その世界があるらしいと思っている。これが、人間における実感の世界の大きな部分を占めているように思える。物の世界では、二次元の複合した世界で、かなりの部分が理解できるのだろう。でも、人間においては、順番において、作り出されてくるものという、順番と、熟すための空半の部分によって、大きな意識における充実感の世界が作り出されているように、最近、私は思っている。 これに関する細かいことは、また、追々書いていきたい。たぶん、非常に多くのことがあるように思える。 このようなことを考えているので、今日は、道をテーマとして取り上げ、いろんな写真をアップしてみた。道は、それこそ、時間軸であり、順番のテーマであり、歴史のように、つながっている世界であろう。今の歩いているところを歩かないと、次の場所にはたどり着けないのだから。 2008年 04月 01日
退職して、一日が経った。そして、初めて、実感を持って感じることは、お金というものの存在のすごさである。 一つは、国民年金への強制加入ということで、年金の支払の月額を知ったこと。それから、健康保険料。それらの額の、第一印象として、その高さ。そして、テレビのニュースでは、75歳以上の人の健康保険料の話を今している。これらの額の高さ。 全部強制的なものだ。すごくお金がかかるということである。今まで、ずっと勤め人であったため、それらは天引きされていた。それで、実感として感じたことはなかった。確かに、明細書で、名目収入と、手取りの違いには、大きな違いがあることには気づいていた。しかし、そのときには、働いていたから、収入が減るという実感であった。しかし、今は、収入はなくなったから、全然実感は違う。 そこで感じるのは、お金のすごさだ。お金って、すごい存在感があるのだなということである。これらは、安定した社会を作るための契約条件の中で発生している。安定した社会を維持するために、あるいは作るために、契約条件を作るのが政治のように思う。そのようにして作られた契約をその集団の人たちが守ることによって、今現在での社会は作られているのだろうということを今私は感じている。 確かに、よくよく考えてみれば、私は日本国民として、日本という社会の中で、日本という社会に守られて生きている。その中の一人であることを、今日はつくづく感じた。 私は契約社会という契約という観点には、非常に疎い人間であった。しかし、今日はつくづく目の前にいろんなものを突き付けられた感じである。 今現在の私の感覚では、人はやはりお金のために働くというのは、なんとなくわかる気がする。でも、明日の私が同じように考えているかについては、分からない。 今また、テレビのニュースでメタボ検診という話が流れている。これは、強制ではないらしいけれども、婉曲的には、罰があるらしい。どんどん、何もかも、強制という色合いを帯びてきて、本人の選択ということが減りつつあるようだ。 これらについて、いろいろ考えてみると、どうも根底には、権威の存在というものが見えてくるように思う。 私は、権威の存在は必要だろうとは思っている。それがなければ、集団維持は困難になるだろうと思っているからである。しかし、権威の存在というのは微妙で、権威が強くなりすぎれば、さまざまな問題が生じてくる。しかし、弱くなりすぎると、集団の存在が危うくなってしまうという、両方の問題を抱えている。 今の世界は、この権威の力が強くなりすぎているのじゃないだろうかと思う。世界中の様々な事柄は、この権威にかかわっている部分が多いように思う。そして、ついでに思うことは、私をも含めて、日本人とは、いかに従順であるかということである。従順な存在、これがまた、日本人の素晴らしさに通じることでもあるように思う。これを母権社会という言葉で説明されていた時があったなと今思う。 その根底には、仏教があるのかもしれない。欲を捨てることという。欲を捨てると、どのようになるかと目先的に考えると、従順になるというように思う。私は以前書いたが、従順になるということと、日本人の感覚の素晴らしさとはどこか通じるところがあるように思う。耐えていれば、どこかに生きる世界を求める。そうすると、感覚の世界で自分自身を満たすということになるという側面もあるように思う。 しかし、私は仏教が悪いとは思わない。仏教は素晴らしい。しかし、今現在、仏教が盛んな国は、数えるほどになっている。インドで仏教はできたが、今のインドでは、仏教ではなく、ヒンズー教の人たちが多い。ということは、日本人のもともとの性格には、仏教が合ったということであろう。 耐えることの素晴らしさ。忍耐力の素晴らしさ。耐える価値観が日本人の美徳なのであろうかと思う。耐えることが極端まで行って破裂すると、極端な自己中心性になる。爆発的な自己中心性である。それは一つとしては、無差別殺人につながるのであろう。 そのように考えてくと、集団を作って、闘っている人たちのすごさを感じてしまう。拉致問題で戦っている人たち。この前は、C型肝炎で、あそこまで戦った人たち。裁判ではそれぞれ闘ってきた人たちを見てきた。今では、裁判闘争だけが、闘う姿に見える。 市民運動は、本当に弱い弱い存在のように思える。そして、市民運動があるとき、例えば、以前近所で、ある市民運動があった。私は参加しなかった。私には、それは、市民運動には思えなかったからだ。それで動いている人たちに関して、私には、自分たちのエゴで動いているとしか思えなかったからだ。 しかし、こういうことを田舎で言うと、村八分にあうだろうと思いながらも、東京なら大丈夫だろうと思って、そういう選択をした。その後の私は、村八分には今のところは合っていない。これは、さすが東京だと思っている。 この部分があるから、東京では、自分の意見に従うことはやりやすい。私は田舎出身だから、これを私が生まれ育った田舎で言えば大変なことになることは重々承知している。 < 前のページ次のページ >
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