2010年 02月 21日
21世紀は、20世紀よりももっと良くなると言われていた。 私は、20世紀後半しか、実際には体験していないが、その中での感想である。 21世紀は、20世紀より良くなっているのだろうか。 私にはどうしてもそのようには思えない。 これは、人が生きるという次元だけからの判断である。 確かに、テレビの写りは恐ろしく良くなった。コンピュータは恐ろしく良くなった。宇宙に、信じられないくらい、簡単に行けるようになってきているようだ。 これらはすべて、物理学の世界のようだ。 でも、人間は人間である。人間科学という言葉か言われるようになったが、その人間科学は、進歩したのだろうか。 私は疑問を感じている。 なぜなら、情緒と言われる世界が、どんどん剥奪されてきているように思える。 人間って、情緒の世界で、生きているとか、いろんな深さを感じてきたのではないのだろうか。 どんどん、深さとは何かと、いわゆる皮肉的に問われるが、今でもそれは数値化できない、そのような、深さの世界はあるのではないのだろうか。 これは今においても、科学の進んできた今の時代においても、数値化は難しい。でも、これはやはりあるはずだ。なぜなら、数字の世界に対して、最もすごい迫力を持って、対置している世界は、まさに深さの世界だろう。 深いとは何か。高いとは何か。このことは、人は追求していくべきだろう。 単なるブランドの世界で、満足する世界もあるが、その時代も終わりつつあるように私には思える。 その証拠は、銀座という世界において、ブランドの終わりが近づきつつあるように思えるからだ。今では、銀座に、ブランドに対抗する、まさにブランドに対抗するそのもの自体の素晴らしさの会社が、台頭しているのが、そのことを意味しているのだろう。 ブランドがすばらしいという価値観も、そろそろ終わりを告げているのかもしれない。 2010年 02月 20日
だから、喜びの具体的な中身は、そのときそのときで異なる。 求めているものによって、喜びの具体的な中身は異なるようだ。 人って、雑種だから、求めるものの中身はまさに雑種だ。 今現在、パソコンに向かっている私は、せんべいが食べたかった。でも、なかったから、他のものを今食べた。おいしかった。今現在の私には、その食べたものこそが、掛け買いのない私の喜びの内容だったようだ。 私の大きな楽しみの一つ。それは寝酒である。ウイスキーを寝る前いつも飲んでいる。 最近、ウイスキーを飲むと、何か食べたくなってくる。少し腹持ちの良いものがいい。高血糖の私だから、脂っこいものは食べられない。だから、そこで出てくるのが、いかり豆であり、せんべい類のようだ。 精神的に元気なときって、求めるものが、ころころ変わるようだ。元気がなくなってくると、何かに対するこだわりが出てくる。そのときは、まさに、こだわったものでしか、喜びを感じることができなくなってしまうように思う。 だから、ある意味、浮気性であるときは、ある意味、元気なのだろう。 でも、これこそが、観念的には、純粋性に欠く存在である。 このあたりで、人は、葛藤にぶつかる。葛藤の原因は、これ以外にもあるが、それでも、これも葛藤の一つの大きな原因なのだろう。 観念の純粋性。 アプリオリに、われわれは、観念の純粋性にこだわってしまう。ここにおいて、善なるものが存在し、真なるものが存在し、そして、「美」なるものも、存在するのかもしれない。 今日、「学問のすゝめ」を見ていたら、何回も「真善美」という言葉が出て来ていた。 真善美。 そう、人間が生きている中で、柱としているもの、それは真善美なのだろう。ここにおいて、人間は命をかけることができるのだろう。 罪悪感という、すごいものも人間は抱えている。そのときこそ、向き合わないといけないもの、それは、「真善美」なのだろう。 そして、今日、「学問のすゝめ」のなかで、人が、死と向き合うときという言葉で、特攻隊を取り上げていたが、そのときには、意味を見出さないと死ねないだろうと、確か言っていたように思う。 これほどまで、人間において重みを持った存在。それは、意味。そして、意味なるものを追求していくと、根底にあるもの、それは、真善美。さらに、その根底の構造には、幾何学的構造を人は見るようだ。 このような宿命を持った存在として、人間は生まれてくるのだろう。 確かに、遺伝子情報はある。でも、人間は、ゲノムによって、宿命的に存在する存在であるようであり、実は現実的にはそうではないようだ。 これは、生物学の研究結果を英語ニュースを英会話で勉強していて、知った。その通りだろう。 そこまで、物的、生物学的な存在ではないだろう。 もっと、心を持っているだろう。 そして、心の存在を宿命的に形作っているもの、それは、大昔から言われている、真善美なのだろう。 でも、今の時代においても、われわれが直感的に感じる真善美なるものの、構造は明確化されていない。 それでも、われわれの存在の中では、しっかりと、真善美と呼ばれる心の構造を持ってはいるのだろう。 これが、生物学的な雑種性と、矛盾をはらむ。 人間とは、悩む存在であるというのも、このあたりに、深い深い構造問題を抱えているのかもしれない。 でも、だから、人間は、死ぬまで、向上し続ける存在であり、専門性において、それぞれの人は深まる存在であると、私は、今の時点では、心の、あるところで考えている。 2009年 08月 12日
情動的判断の世界は、主体的に私が選んだ世界なのだろうか。それとも、取り憑かれて、そのように思ってしまう世界なのだろうか。これは、本当に、なかなか難しい世界である。 人が感動する世界。これは、まさに、情動の世界だ。そのとき、その情動とは、私が主体的に感動しているのだろうか、それとも、受動的に取り憑かれたような気分のなかで、感動しているのだろうか。 興奮するときって、なかなかくせものだ。興奮すれば、幸せ感を感じることができる。でも、このときの興奮は、主体的に選んで、その世界に入り込んだのか、それとも受け身的にその世界にはまってしまったのか。この区別こそは、最大の困難なところだろう。 自分が主体的に選んで、その世界に入り、その世界において、感動を感じることもある。受け身的に、その世界にはまってしまって、感動を感じることもある。 この区別がなかなか難しい。 自分が主体的に選ぶというときと、逆に、自分がそのものに選ばれて、その世界に入るという両者がある。選ばれたときは、取り憑かれた世界である。 取り憑かれたとしても、そのもの自体が、なかなか良いものなら、これはすばらしいことだろう。 こちらのほうが、自分で選んだときよりは、感動の深さは深いのかもしれない。 このように、常にわれわれの生き方のなかには、倫理道徳が入り込んでくる。このように、倫理道徳という考え方は、まさに、人間が他の動物と区別される大きな次元なのだろう。人間であれば、なぜか知らないが、倫理道徳の次元を持っている。 これは、生まれつきなのか、それとも、文化のなかで、教育として身についたものなのか。 最近、この能動と受動の区別において、またまた、私は悩んでいる。 主体的なのか、受動的なのか。このことは、本気で、冷静に詳しく眺めてみると、区別をするのはなかなか難しい。 時代精神に則って、その時代精神と照らし合わせて、生きることは、簡単だ。このとき、ほとんどの人は、時代精神との点検をしていれば、主体的だと考えている。 でも、時代精神そのものが、別の時代になると、あの頃は、フィーバーしていたと、気づくこともある。 近い昔では、アメリカの、あの、9.11のテロ事件だろう。 あの後の反応はどうだっただろう。誰しもが、イラクに攻め込むべきだと思っていた。あのテロ事件の犯人を捜して、なんとか、この恨み辛みをはらすべきだと、誰しもが考えていた。犯人が見つからないとき、この恨み辛みを早くはらしたいと考え、その対象が、はっきりしないなら、疑いのあるものに対して、この恨み辛みを早く解消したいと、われわれの心の底のほうでは、無意識的に考えたのだろう。そして、戦争が始まった。 今では、その後の結果は、明々白々である。 これは、主体的な行動だったのだろうか、取り憑かれたのだろうか。 このあたりの問題が、最も難しい。激しく、感情的になればなるほど、あるいは、このことは、感動が深くなればなるほどということにつながってくるが、主体なのか、取り憑かれているのか分からなくなる問題をはらんでいる。 「感動した」という言葉を聞くと、それを聞きながら、われわれはもっとその言葉で感動する。でも、このことが、「感動した」と言った人間が取り憑かれていて、それを聞いた人間がもっと感動したことにおいて、明確化されているように、もっと取り憑かれていたのかもしれない。そういうことであったかもしれない。 主体、能動、受動、取り憑かれ現象。 言葉では、人は誰しも、自分は主体的に生きていて、能動的に行動していて、まったく受動的ではなく、取り憑かれてもいないと言うだろう。 憑依現象というのは、目に見えないものが取り憑くから、自分は取り憑かれているのか、取り憑かれていないのかの区別は非常に難しい。ただ、周りの人間が、あなたは取り憑かれていると言う。でも、それを言う人間も取り憑かれた状態で、取り憑かれていない人間に対して、相対的な意味合いで言っている可能性がある。 取り憑かれているのが当たり前と感じていれば、そのものに取り憑かれている人にとっては、それに取り憑かれていない人は、取り憑かれていることになる。 このように、相対的に、物事は見えるが、本人は、まったくその相対的な関係性を意識していないとき、そして、そのように物事を相対的に見ることは本当に難しいが故に、事柄は難しいことになってくる。 相対性を直感的に捉えることは、難しい。誰しも、どこかに、絶対的な点を据えないと、物事というのは、見えてこないからだろう。 どこかに柱が欲しい。これを据えることができるが故に、人は、ある意味、客観的に、現実を、冷静に冷静に捉えていても、どこにも、物事を相対的に見るための、絶対的なポイントがないにもかかわらず、安心していられるのだろう。実は、その背景には、無意識的な絶対的柱を据えているはずである。 相対的とは、やはり、どこかに、絶対的なポイントを暗黙の前提として、据えているのだろうと、今の私には思える。 2009年 06月 19日
このことをニュースで見ていると、やはり人間には寿命って、あるのだと思う。 そして、番組のなかで言われていたが、祝いとしての誕生日にテレビのレポーターがよくする質問に、いくつまで生きたいですかという質問があるらしい。それに対する答えがすばらしい。そのようなことは考えたことはないと。 たぶん、レポーターの質問には、マニュアルがあるのだろう。でも、この質問はすべきではないだろう。 人って、いくら歳をとっても、今は今だろう。若い人たちと同じように、その人は未来に向かって生きているのだろうと思う。 そのような観点から、質問をして欲しい。あなただって人間なのだと。寿命によって、生きている他者を決めつけるという観点からの質問は、人をそれこそ、結局は物質というメカニズムを持った生き物だろうという発想が根底にあるように思える。そして、その発想のなかで、質問をした人たちが元気よく生きていられるのが、私には不思議である。 ここで、もう一つ浮かんでくるのは、百歳前後まで生きて、亡くなっていった人たちに対する葬式のなかで、寿命を全うしたという言葉がある。 でも、私にはそれも失礼な言葉だと思えている。 私の母親は、90歳を過ぎてまで生きていた。そして、亡くなった。亡くなる数年前、私に話していたが、死ぬことはやはり怖いと言っていた。そうだろうと思う。いやだっただろうと思う。 だから、私は、喪主の挨拶のなかで、母が亡くなったことは、私には本当に辛いことだと話したことを思い出す。そう、それは、母親だけの問題ではなく、子どもとしての私の問題でもある。私の寿命は、そのあたりなのかと。 日本人における寿命が延びるということは、私たちの寿命だって延びるという可能性そのものを含んでいるということを考えて欲しいと思う。それこそ、われわれ自身の問題なのだと。 人って、それぞれが、人であるが故の宿命、また、その人がその人であるが故の宿命ってあるのだろうと思う。 このように書くと、非常に宗教的なトーンに聞こえるが、それは、その人それぞれの寿命に関する生物学的なメカニズムが分からないときに考える考え方なのだろう。 今では、それぞれの人の遺伝子の状況が調べられて、人間全体に共通する寿命から、それぞれの個々の人に関する寿命に変わりつつある。 でも、やはり、人間全体に網がかぶせられている寿命ってあるのだろう。そのときこそ、長生きしている人たちを横に見ているときの、自分に対する寿命の可能性を感じて欲しいと思う。 このときこそ、老人を大切にしたいという気持ちが、それこそが、自分に降りかかってくることと直接的に関係していることになり、本当に老人を大切にできるのではないのだろうか。 これが、個としての私の存在というものと、人間のなかの一人としての私の存在の間に橋を架けるものなのだろうと思う。また、このことが、自然保護というものと、人間の間に橋を架けるものなのだろう。 このような橋が、今の時代、どんどん減ってきているように思える。 もう一度われわれが取り戻す必要があるもの、それは、それぞれの人は、人間という範疇のなかの一つの存在でしかないのだと。生き物としての存在の一つの範疇でしかないのだと。 そのときに、われわれは、様々な命に関わることに関して、最大限の配慮ができるようになるのではないのだろうか。 2009年 05月 14日
物理学とは、強引に言うと、自然現象を説明する学問らしい。 その説明には、数学があって、数学によって説明する学問なのだろう。 でも、そこで言われる自然とは、人間が認識できる世界であり、観測されうる世界を対象とすることらしい。 このように、対象が明確化されないと、話は始まらない。 対象は、何なのか。それはすべてであると言ったときには、何事も始まらない。何事も、追求する方法は出てこない。 すべてとは、無限であるから。 でも、物理学と心理学とは、裏腹の関係にあるように思えてならない。 量子論を作り、現代までの物理学をリードした、ボーアも、晩年は、心理学に関心を持っていたらしい。そこにおいては、相補的な考え方であった。 これは、たぶん、物理学と心理学とは非常に近い関係を持っているのだろう。そして、ユングは言う。物理学の中世における錬金術とは、心の投影であると。 投影という概念において、心の世界、無意識をも含めた心の世界と、物理学との間に橋が架けられるのだろう。 物理学の根底の概念、それは光の存在である。 無意識をも含めた心の世界の中心概念は神であり、まさに、光である。 相対性理論は、光を根底において、作り上げられた。そして、現代の原爆、原子力発電、半導体。超伝導の世界も、光を根底において、作り上げられてきた。光の、まさに、粒子であり、波である両者の性質を伴う存在を根底において、作り上げられてきた。 まさに、波であり、また、粒である両者の性質を持つものとして、今の物理学は展開されてきたのだろう。 これらは、心のメカニズムを外の世界に投影することによって作り上げられたということは、心の世界にも、心は粒であり、波であるというメカニズムを持つものなのだろう。 神秘主義を信じていたニュートンが、古典力学という、物理学の根底を作り上げた。ニュートンは、微分の計算方法をも考え出したらしいが。 でも、微分とは、まさに、時間概念を分析する方法であったのだろう。なぜなら、速度とは、位置と時間において、規定される概念である。また、加速度とは、そのときの位置の微分において、速度を見つけ出すという、関係性を持っている。 今では、相対性理論によって、時間と空間は、統合されて、一つの時空間という世界になっているが、空間世界を時間によって、操作する方法をニュートンは考え出したのだろう。 ここにおいて、時間概念という概念が、キーワード概念として、表に現れてくる。時間こそが、位置と、速度と、加速度の間の関係を関係づける概念である。 だから、ニュートンが発見したことは、空間と時間の関係づけをしたのだろう。そのことによって、様々な現象を見いだしていったのだろう。 そして、アインシュタインは、光における速度が、どの座標においても一定であるという、そのことによって、ニュートンの考え方に修正を加えたのだろう。ということは、やはり、ニュートンが発見した時間概念の仲介的概念を、微細化したのだろう。 そして、相対性理論は、誕生したように、物理学の素人の私には思える。 このことによって、量子力学も、誕生した。 量子力学では、やはり、自然現象は、リンゴの数、ミカンの数でしかなかったようだ。 小数点はないということを量子力学は、証明している。 小数点以下を考えないといけないということは、その基本単位を見つけ出せていないからだということを、量子力学は、言っているように、素人の私には思える。 ここで、心のテーマを考えてみたい。 私は、最近、時間とは、心において、どのような姿をしているのだろうか、気になってしようがない。 時計は、われわれにとっては、心の時間の姿ではない。時計は、ある瞬間における、単に位置を表しているに過ぎない。 われわれ人間は、時間をいったいどのようにとらえているのだろうか。どのように、感覚しているのだろうか。 あるいは、人間は、時間を感覚できるのだろうかと、最近の私は考えている。 今の私には、人間がとらえる時間には、二つの姿があるように思えている。一つは、動きとしてとらえる心の姿。動きこそは物理学の世界では、時間そのものである。でも、もう一つ、物理学とは本質的に異なる人間にとっての大きな時間軸。これこそが、他の動物から区別されうる人間であることを明確化する時間軸であるように思えてきている。 この時間軸について、しばらく、それは、数ヶ月か、数年か分からないが、考えていきたいと思っている、今の私のテーマである。 2009年 05月 06日
今、現代物理学のパウリの排他原理とユングとの関係についてネットで調べていた。ユングは、パウリと関係があった。だから、ユングは、物理学に深い理解があったのだろう。もともと、物理学的発想をユングは持っていたのだろうが、それでも、現代物理学に異常に強い関心があったのだろう。 今の物理学の代表は、相対性理論と量子力学だろう。それから、最近では、超ひも理論が出てきているように思う。 どんどん、直感ではついていけない世界になってきているように思える。 そして、超ひも理論では、行列式が根底にあるらしい。そして、この行列式、直感では、なかなかついていけない。 今、量子力学の創始者、ニールス・ボーアの本を読んでいる。これは、中公新書から出た本だ。素人向きの本である。ボーアのこだわりは、直感の働かない数学だけの世界である。その世界をボーアは嫌っている。また、アインシュタインは、確率の世界を嫌っている。神は、サイコロは振らないと。 私も、直感が働く世界で物事を考えている。直感が通じなくなったとき、それこそが、批判の精神が全く役立たなくなってしまうからだ。たぶん、ボーアもそのように考えたのだろう。 批判の役立たない、単に、数式の計算だけの世界に入り込んでしまうと、その結果が正しいのか、正しくないのかに関しても、判断できなくなってしまう。 やはり、人間にとっての、最も原点としての正しさは、直感に訴える世界だろうと思う。直感とは感覚の世界のことである。 なぜなら、人は、直感の世界、感覚の世界で、まさに生きているからである。意志と呼ばれるのは、その意志の働くキャンパスは、それこそ、直感、すなわち感覚の働くキャンパスであるが故である。そして、ここにおいて、まず最初にできあがった論理は、幾何学なのだろう。 そうであるが故に、幾何学的論理操作のできないキャンパスを取り入れて、論を展開していったとき、人間には、賛成も反対もできない。人間という主体そのものの生きている空間は、まさに直感、感覚の世界なのであるから。 だから、複雑な数学が用いられていても、それが、幾何学と言われる直感の働かすことのできる、感覚的キャンパスの世界での論の展開まで、還元できなければ、人には、正しいも間違っているも、判断できなくなってしまう。それこそが、神の世界になってしまう。 神から、人が、火を盗み、そのため、人は考えることができるようになったが、神に火を返してしまえば、そのとき、人は、考えることができなくなってしまう。でも、そのことによって、人は、悪をも背負う必要はなくなるのだけれども。それは、野生の動物に戻ることになるのだろう。 でも、悪を背おうという重荷を持つけれども、そのため、考える自分を持つということ、それを手に入れる。 どちらがいいのだろう。主体を手に入れるが故に、悪をも、いらないが、持たないといけなくなってしまうのか。悪を放棄することによって、主体をもなくしてしまうのがいいのか。 これはなかなか、難しい問題を提起することになる。 ボーアは、心理学の世界に置き換えれば、それを恐れたのだろう。やはり、人が、いろんなことを判断していかないといけない。人が、物理学の世界では主役であると、どこかで考えていたのだろう。そして、アインシュタインは、神の存在がなくなることを恐れた。 ボーアは神とまでは言わなかったが、それでも、人の主体は大切にしたようだ。 アインシュタインは、人の主体は、神から与えられたものだと考えたのだろう。 二人とも、人間を中心においた物理学を展開しているように思える。 ユングは、中世の錬金術の世界に、無意識の世界の投影を見ている。 中世の錬金術は、中世における、現在の化学である。現代の化学の源流である。その流れで、現代の物理がつながっているところはたぶんあるだろう。 アインシュタインの言ったことがヒントになって、ハイゼンベルクは、何を実験的に観測できるかを理論が決めると考えればよいと、考えたという。 このあたりもなかなか面白い。そう、われわれが現実の世界のなかで気づくことのできるものは、われわれの心の中にある理論、すなわち、仮説、すなわち、そのようなイメージでしかない。 これもなかなか面白い。 人は、自分が思っていることしか、見つけ出すことはできないのだ。 心配をしている人は、現実のなかに、心配の結果を見つけ出すことになる。 希望に燃えている人は、現実のなかに、希望の結果のすばらしい世界を見いだすことになる。 これは、心理学の世界では当たり前のことである。でも、物理学でも、同じ論理が展開される。アインシュタインも、同じ論理を展開していたようだ。そう、理論が、実験において、発見されるものを規定する。そして、理論が当てはまらないときには、そこには、何も見えないということである。 人は、見えることを必然的に求めているが、そのためには、どうしても、理論、仮説、前提が欲しいのである。 そうでないと、何も見えない。ここにおいて、人間における意志の世界は展開される。まさに、意志とは、理論の世界であり、仮説の世界なのだろう。その世界に生きているとき、その人は、生き生きしていると言われるのだろう、たぶん。 だから、人には、理論、仮説、思い込みの世界も必要なのだろう。 ここに、なかなか難しい問題が出てくる。歴史的結果としては、それなりに見えるのかもしれないが、やはり、思い込みの世界も必要なのだろう。 しかし、思い込みの世界は、チェックが入らないが故に、チェックとは、幾何学の世界としての直感の世界だろう。 直感と呼ばれる、われわれ感覚の世界、これは大事だろう。われわれは、まさに、感覚の世界のなかでしか生きていないのだから。これこそが、神に対して、ものを言うことを許される世界なのだから。 それがなくなれば、まさに、数学の世界だけになり、複数の神の比較判断ができなくなってしまうことになる。 あの、ギリシャ神話の世界の神を見て欲しい。様々な神がいるのだから。 そのとき、やはり、絶対的な前提として、人は、集団として、幸せになるという社会の概念は、権威におけるピラミッド型の頂点の価値観を超えるということである。 ここにおいて、元々の矛盾があるが故に、歴史的に、世界は、苦悩のなかで、流れてきている。 でも、進歩がなぜ生じるかという問題を考えたとき、この矛盾こそが進歩というメカニズムを作り出しているのだとも考えられる。 ここがなかなか難しい。 2009年 04月 25日
このように感じるときは、そろそろその世界も終わりに近づいたのだろう。意識化しはじめて来たのだから。 でも、量子力学の世界、相対性理論の世界、ひも理論の世界。本当に、面白い。常識を先導する論理の世界だろう。 常識とは、過去の世界を守り続ける保守的発想の世界である。 物理とは、外の世界の現象を整合性を持って、説明する論理の世界。その世界の追求なのだろうと思う。これに対して、形而上学の世界がある。これは、まさに、われわれが、直感的に、そうだろうと人間であるが故に、元々持っていた論理の世界。これが、今では、哲学と呼ばれる。物理の論理の世界、これは、外の自然の世界の論理と呼ばれている。それが、だんだん、近づきつつある。この姿を想像するだけでも面白くなる。今のところは、物理学の世界は、心の世界のメカニズムと整合性ができる姿に近づきつつあるように思える。心の世界のメカニズムは、まだまだ、哲学の形而上学の世界とは、かけ離れてはいるのだけれども、たぶん、何時かは、その架け橋ができるのだろう。 物理の世界、それは、自然現象を追いかけて、できあがってきた論理の世界、数学の世界だろう。それが、心の世界、心理学と言われる心の現象を追いかけてきた世界と近づきつつある。 ともに、現象を大前提に置いている。現象とは、事実である。事実が現象と言われている。そのことにおいて、近づきつつあるのだろうと私には思える。 今の私には、心理学の確率の世界と、量子力学の確率の世界では、確率の用いる次元そのものは異なっていると思っている。でも、物という、自然界の世界が確率の世界になりつつある。私の考える心の世界は、私に関しては、物の世界のニュートンの古典物理学の世界に近づいてきている。 そして、量子力学では、整数しか存在しないという、昔の数学に近づきつつある。でも、今においても、ピタゴラスの三角関数の定理が、微調整されないというのは、すごいことをピタゴラスは発見したのだろう。 本当に、現象というものを根底に置けば、常識の通じない世界がどんどんできあがっていく。そして、相対性理論を勉強していると、原子爆弾は、相対性理論を根底において、できあがってきたと書かれていた。 これらを勉強してきて、科学の進歩は、没価値論と言われてきたが、今では、科学の進歩は悪魔を作り出し、効率性という、神をも作り出してきたのだろう。そして、今では、科学者に、そのことが、現実の価値観、倫理観との関係をも考えることを強く要求している。単に、好奇心だけではだめだと。 あるいは、好奇心とは、神と悪魔を解放してしまうのだと。それは、パンドラの箱を開けてしまうことになるのだと。 でも、波メカニズムが、根底を支える一つのメカニズムだとすれば、神だけを成長させ、悪魔を成長させないということは可能なのだろうか。 現象のメカニズムが、どんどん科学の進歩で、解明されてくると、すなわち、パンドラの箱が開けられてくると、神と、悪魔と呼ばれる、波の高さと深さは大きくなるのだということを言っているのだろう。 神は、波の頂点を言い、悪魔は、波の深い谷の深さを言うのだろう。 これらの発想は、心の世界からは、高くあり、深くあるという、波の現象ということになるのだろう。でも、波が、それぞれの波の姿のなかで、粒子という物質になるという考え方ががある。これは、なかなか面白い。 光とは、波であり、また、粒子でもあると。 そして、光とは、質量を持たないと。ということは、エネルギーだけの存在ということになるのだろう。 ゼロは存在しないと言うが、ゼロは存在していた。それこそが、光であり、エネルギーだけの存在なのだろう。 なかなか、面白い。 見る、見えるとは、まさに、光の世界だ。 われわれ、人間は、見る、見える世界を通じて、論理を作り上げてきた。 この、論理を作り上げる存在こそが、人間なのだろうと、今の私は考えている。 元々、自然の世界には、論理なんて、何もないのだろうから。 そして、今の私は、昔々から言われてきた、意識というもの、意志というもの、それを人間を考える根底に考えたいと思うようになってきた。でも、昔の意志と、今の私が考える意志との違いは、私が考える意志とは、意識とは、意識であり、意志であるというところである。昔の意志は、意志を考えると、意識はなくなり、意識を考えると、意志はなくなっていたが、両者を備える世界こそが、人間の主体、その心の世界なのだろうと私は、今は思う。 この考え方は、物は、粒子であり、波であるということの平行思考である。 そして、その心によって、物理学も展開されてきたのだろうと思う。 ここのところで、物理学の世界と、心理学は出会うのだろうと思っている。 従来は、心理学とは、物理学に対しては、質の学問であり、物理学は量の学問と言われてきたが、たぶん同一次元のなかでの世界ではあるが、両者は、相転移を起こして、分裂したのではないだろうかと、今の私は、かすかな仮説として、考えている。 だから、物理学の論理と、心理学の論理とは、平行関係を持った部分が、かなり多いだろうと今の私は考えている。 そうすると、ここまで来ると、人間を考えることにおいても、ロマンが発生する。地球、宇宙の展開を考えることが、今の物理学の世界では、ロマンらしい。だから、いくらお金を出しても、宇宙に行きたいと思う人たちが出てくる。 でも、そのことは、人間の心としての、主観として、今の時代では、客観と言われる、いわゆる自然をもとに、心の世界に縮小化されている世界が、それこそが、客観の世界と平行した世界を人間の心の世界は形成していたという、何とも言えない、驚きを与えてくれるということはある得るだろう。 今の時代は、物理の世界によって、心の世界が、あまりにも微少化されている時代なのだろう。 今まで、心の世界があまりにも大きく拡大的に考えられてきた反動が、今現れているのだろう。 物の世界は、アリストテレス、ピタゴラス以来、2000年の周期を表しているのだろう。1800年間ぐらいは、まさに、心の世界が拡大されすぎた時代であったのだろう。 驚きは、サプライズは、ロマンだけではない。悪魔をも提供する世界だ。 だから、今の私は、善なる世界ばかりを追求すると、悪魔は、真後ろにいますよと、人には言うことにしている。大きな善と同時に、小さな悪魔が欲しいと、私は、周りの人たちに言っている。 そのときに、小さな悪を含んだ、善なる世界を生き続けることができるのではないかと、今の私は考えている。 悪がなれば、われわれの、前だけを見る目には見えない悪が、真後ろにいるということなのだろう。でも私たちは、後ろを見る目は持ってはいない。 < 前のページ次のページ >
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