2012年 05月 14日
この前たまたま、ケーブルテレビで、相対性理論と量子力学の統合という内容の番組を見た。そこに出てきたのは、反粒子の考え方であった。真空は真空ではなく、常に粒子と反粒子が生まれ、ぶつかって、なくなっているさわがわしい世界だということであった。 そして、粒子をとらえれば、動きがなくなると説明されていた。動きをとらえれば、粒子を明確にはとらえられないと説明されていた。 私はたまたま、数日前に、相対性理論の話がラジオで言われていたので、昔読んだ相対性理論を思い返していた。そこで思っていたのは、相対性理論では、速度の問題と、年をとるという、時間の問題が前面に出されている。しかし、時間はさかのぼって生きることは現実では不可能だ。常に時間は前に進むしかない。 そのことについて考えていた。時間をゆっくりと進めることは、今の技術で可能である。それは、スローモーションだ。これをどんどん進めれば、時間の進行は限りなくゼロに近づくが、ゼロは超えられない。たぶん、これを相対性理論の根底に置くことは可能だろう。 そして、このロジックで考えれば、相対性理論と同じ考え方にたどりつくと感じていた。それは、スローモーションの世界に暮らしていて、そこで年をとれば、そしてその世界から、普通の世界に戻れば、年はほとんどとっていないことになる。これが浦島太郎の考え方になる。 だから、相対性理論では、時間が重要な要因になるのだろう。 そして、これを量子理論の世界に置き換えれば、粒子を明確にとらえれば、そのとき時間は止まっている。しかし、エネルギーとしての波動でとらえれば、動きでとらえることになり、そのとき粒子はとらえられない。それは当たり前のように思う。それから、エネルギーとは、波であり、波動である。だから、今では、物は片や粒子であり、波動である。そうなのらしい。これが量子力学だ。 物を粒子としてとらえるか、エネルギーとしてとらえるかということなのだろう。相対性理論では、物を時間軸でとらえるか、時間をストップさせて、実態としてとらえるかということなのだろう。しかし、相対性理論では、質量とエネルギーは同一概念であるという。これが、原子力の根底の発想である。E=MC^2。 私は、その番組を見たあと、興奮していた。 そして、昔私が考えていたことを思い出していた。それは、なぜ人は眠らないといけないのかということについてだ。 一時、人には陰陽論と同じ発想ではあるが、陰も陽もあるらしい。それで、それをシステム理論のソフトで書いて、遊んでいた時期がある。 ユングの影の理論は面白いが、ユング自体も、影の理論の根底に関して、揺らいでいたようだ。なぜなら、影と決めつけて、陰陽理論を引用し、太陽と月を引用しているからだ。 実は、陰と陽とは、影ではなく、月と太陽の世界であるのだろう。反対の性質を持つ、二つの存在のように思える。 それで、その性質を持たせて、システム理論のソフトで、書くと、面白いことに、躁鬱病の人の自殺は、鬱のピークを過ぎたあとが最も自殺傾向が強く、鬱のピークの前の鬱が低く下がっているときでも、そこまでではないという結果が出てきた。これは、実際のデータと適合する。 とすれば、やはり、二つの存在があるのだろう。 そして、このことが、粒子と反粒子の話とつながってくる。この二つによって、エネルギーが生まれるということだ。これは、生物の誕生ということになる。 そう、生物では、眠らない生物の話を聞いたことがない。 私は、人間だけははっきりとは眠るとは知っているが、魚だった眠るし、ほかの生き物もたぶん眠っているのだろう。 眠るのは、休息ではない。休息なら、なぜ休息が生きる上で必要なのかの説明にはならない。 生きるというエネルギーを生み出すには、波の存在は最低限必要なのだろう。命と呼ばれるとき、それは必要になるのだろう。それこそが、エネルギーを生み出す必要条件であるから。 ところで面白いと私が思っていることが浮かんできている。それは、反対語という言葉だ。反対語とは、両極端な言葉ということではあるが、両極端を決める中心点とはなんぞやということである。それは、どうも、平均値ということらしい。これは、さっきのテレビ番組に照らし合わせれば、真空状態ということになり、どうでもいい刺激の全くない状態ということになるらしい。 平均とは、刺激の全くない状態で、真空状態に通じるらしい。 このテレビを見たあと、私は興奮して、翌日の今日も興奮は続いている。 でも、少しずつ冷めてきてはいるが。 冷めてきて、話題は急に変わる。いつものことだけれども。 今、自称タマネギ療法にこだわっている。 私は、高血糖、高血圧である。そのため、50代で、脳梗塞になった。今では、その結果、悠々自適である。そして、今では元気になってきている。山歩きもしている。脳梗塞のあとは、杖をついていた。 人体実験として、自分自身の身体を被検体として、至福のアルコールの摂取時に、つまみとして、小さめのタマネギを丸ごと焼いて、食べている。 数日しか経っていないが、血圧は、5ミリほど、下がってきているようだ。収縮期血圧値も拡張期血圧値もそうだ。 普段では、快適な熟睡ができたとき、山歩きのあとなどでは、10ミリ単位で低下する。しかし、数ミリというのが、いかにも効果がありそうな数値のように思える。でも、まだ、数日間の結果だけだが。もし、効果があれば、至福のアルコールの時間も、それなりにのんきに楽しめそうだ。 2012年 05月 08日
私も以前、人工知能という言葉にはまっていた。そして、そのプログラム言語を勉強したものだった。 しかし、今現在は冷めている。 なぜなら、私が今書いているVBAソフトでも、書けるような気がするからだ。 そこで、私は考え始めた。人工知能とはなんぞやと。 人工知能とは、人間的発想をする考え方であるはずだ。 そして、またまた、私は考えた。人間的発想の根底とはなんぞやと。 私は、人間は知識と同時に、試行錯誤によって、発見的に答えを見つけていくという思考をするらしいと、今では考えている。 だから、知能よりも、年の功の方が、すごいはずである。 年寄りは、学校時代、どれくらいの成績だったのか分からないが、みんなすごく知的なように私には、見えるし、事実そうだと思う。まさに、これこそが、年の功であり、年の功とは、試行錯誤というメカニズムを言うのだろう。 そのことを考えると、人工知能とは、試行錯誤をするプログラムが作れれば、人工知能ということになるように思う。 それは、プログラム言語に制限されるのではなく、プログラムの書き方によるのだろう、たぶん。 いかに、試行錯誤的発想をプログラムに書き込むかということになるのだろう。 私も挑戦した。目的を明確にして、いかに目的に近づけるかということに、全く基礎的ではあるが、成功したプログラムを書くことができた。 人は、崇高に聞こえる言葉に反応する。私も反応してきた。でも、実は、直には崇高なるものという存在はないのだろう。どうしても、名詞的な存在を求めるが、そうではないらしい。それよりも、ありきたりであっても、それらをいかに用いるかという、用い方によって、人工知能と呼ばれるような崇高なものから、ありきたりのものまでできあがるのだろう。 ところで、話はがらっと変わる。 私は今、タマネギの丸焼きを食べている。 なかなかおいしい。 今現在は、一日の中で、私の至福の時間だ。アルコールの時間だ。一人でひっそりと飲むお酒、おいしいものだ。 私は、高血糖だから、アルコールのつまみにはこだわらないといけない。 それで、タマネギの丸焼きを作って、つまみにしている。 焼くと、いがらっぽさもなくなり、甘みも増し、それなりにおいしくいただける。 何よりも、タマネギは血行を良くしてくれる。 私は、高血糖であり、脳梗塞になった人間で、血管系の問題を発生しやすい人間である。だから、タマネギや、ネギ類は身体に最適の食べ物である。 ところがである。今日、近くの食品売り場を歩いていた。 なぜか、おいしく、目に飛び込んでくるのが、アジのフライであった。本当に食べたかった。買いたかった。 それと、エビのフライの総菜であった。 それらを我慢するのに、いかに苦しかったか。今でも、あの苦しさを思い出す。でも、次行ったとき、買ってこようと思う。フライの衣の量を少なくすれば、大丈夫なのではないかと、今でも、それを考えると、唾液が出てくる。 ずっと、私は、フライ、天ぷらを控えている。もう何年になるのだろう。 2012年 05月 01日
今、ニュースのネットサーフィンをしていた。タイトルを見ていると、やはりあおる、あおる。 テレビでも、今ではあおり時代になっているようだ。 ニュースとは、直訳すれば、新しいことという意味だ。 でも、ニュースは、新しいことということなのだろうか。あおって、あおって。 そして、テレビの世界は、マスコミと言うのだろうか。誰しも思っていないだろう。それなら、どの媒体がマスコミなのだろう。 今の私には分からない。 そうそう、思い出す。私が大学生の頃、教養学部時代の社会学の授業だったと思う。その授業で、夏休みの宿題があって、私はマクルーハンを参考にして、メディア論を展開したことを思い出す。 私は、てっきりその宿題の判定は、優だろうと思っていたのが、良であった。今でも、私には理解不能だ。そして、同じように、良だろうと思っていたことが、優に評価されたことも、たびたびある。 人生って、いろんなことがあるようだ。 それはさておき、本題に戻ろう。今は、マスコミって存在するのだろうか。 テレビでは、一つのことを放映すると、とたんにコマーシャルだ。 私は、コマーシャルになると、テレビの音声を聞こえないように、ボタンを押すようにしている。そしたら、料理の一段階が過ぎても、まだテレビの画面ではコマーシャルで、もう一つの料理の段階をも過ぎても、コマーシャルで、その料理ができあがっても、コマーシャルだった。 震災後、民放のコマーシャルの時間が、有意差ありで、増えたように思う。 だから、いらいらしてくると、NHKを見るようにしている。 これが、マスコミなのだろうか。 これが、メディアなのだろうか。確かに、メディアであるかもしれない。メディアとは、マスコミとは異なる性質のものなのだろうから。 そして、私は、老後の人生を尺八を吹き、役にも立たない英会話の勉強をし、役にも立たない研究もしている。 片や役に立つことばかりの世界、効率性ばかりの世界とは、対局を私は生きているように思える。 今は、私の家の前を犬の散歩で歩いてくる犬と、散歩させている人たちとの陰なる戦いの中で生きている。 いろんなメディアがあり、いろんな人たちがいるものだ。 どう向き合っていけばいいのだろう。 静かな暮らしたいものだ。 2012年 04月 25日
新しく買った携帯用ラジオがあまりにも音が悪く、いろいろ調べていた。その中で、それなりに高級なヘッドホンで聴くと、音が全然違う。もしかしたら、イヤホンで、音が変わるかもしれないと思って、高音領域がきれいだというインターネットの評判を信じて、購入した。 今日、それが届いた。 確かに、評判通りに、高音領域がきれいだ。あの、詰まったような、籠もった穴詰まりのような音はない。 正解だったように思う。 明日から、ラジオを聞くのが楽しみになってきている、今の私だ。 その前には、ラジオの音をはっきり聞けるという、500円前後のイヤホンを買ってきて、聞いていた。確かに、それなりには聞けるが、今回届いたイヤホンは、全然桁違いだ。値段も、桁違いに1万円ちょっとの値段だった。 昔では、違いに関しては、口コミだけしかなかった。だから、知り合い数が少ないと、ほとんど情報は入らなかった。今では、インターネットを使うと、情報が手に入る。その情報をどれだけ信じていいか分からないが、それでも、情報がないよりは、はっきりと、ましだ。 それを信じて、今回購入した。情報通りに、音はいい。 イヤホンなんて、付け足しだと思っていた私は、思い知らされている気分だ。 私は、50歳過ぎた頃と52歳の頃、二度入院した。 入院すると、イヤホンでテレビを見ることを強要される。そのとき買ったイヤホンは、100円程度だったように思う。 聞ければいいということだ。 そして、確かに問題なく聞けた。 しかし、ラジオになると、イヤホンの性能が問われるのだろうか。 ラジオを作っているところが、勝手に、ノイズをなくすためのフィルターを掛けている。これが問題で、低周波も高周波もカットしているらしい。そして、その結果、籠もったような音になってしまう。 英語で聞いているとき、オバマ大統領の英語と、ヒラリー・クリントンの英語の違いのような違いが感じられる。 オバマ大統領は、小さい頃、東アジアで育ったためなのだろうか、英語のr の発音を気にして、常に、r の発音をしているように思う。それに対して、さすがアメリカ育ちのヒラリー・クリントン。r のときは、r で、それ以外は、r ではない。 だから、ヒラリー・クリントンのスピーチは、聞きやすい。 今回のイヤホンは、オバマ大統領のスピーチと、ヒラリー・クリントンのスピーチの違いくらい、明確に違っている。だから、聞きやすい。 今回、張り込んで、高いイヤホンを買って良かったと思っている。 なぜなら、また、ラジオを聞く楽しみというか、モチベーションが高まったからだ。 私は、日々、ウォーキングの時、NKHの英会話の放送をレコーディングして、聞いている。 ウォーキングの時だから、聞く音は、すっきりしていたい。籠もっていると、歩きながらも気分が籠もってしまう。 2012年 04月 23日
なぜか仕事の中身は、私一人が満足できればいいというように、近頃はなってきている。 世間では、世に認められることが、満足の尺度だろうけれども、最近私はそこから外れてきた。 そして、私の仕事は一段落した。 ずいぶん苦労したが、一段落して、しばらく休もうと思っている。 次には、久しぶりにシステム理論を基本としたソフトを使ってみたくなってきている。 それで、遊びたくなってきている。 一段落の後、山歩きも行ってきた。次は、システム理論だと私は思っている。 システム理論を根底にした私が使うソフトはSTELLAだ。 なぜか、私はこのソフトが気に入っている。 今の日本の現実だろうか、それとも世界の現実だろうか分からないが、人は、焦点かづけられた個別にはまっている。それは、私の好む世界ではない。 それぞれが、みんな、この世界こそが大切だと、世界中で言われているのではないだろうか、今は。 それは、私の好みではない。 まさに、それに180°反発しているのが、私の今言っているシステム理論だろう。 世界ではよく、バランスだと言うが、バランスとはなんぞやと聞いてみたい。 私が、バランスと言うときには、STELLAの表現する世界だと思える。そのソフトは、インターネットで調べれば手に入るだろう。日本の生協が翻訳しているらしい。私は、このソフトが好きだ。 しばらくは、このソフトで遊んでいたい。 ちょっと前は、高校の数Ⅲで遊んだように。 でも、あの頃勉強した、数Ⅲの世界は、今の私個人が生きているお金には通じない私の仕事に非常に役立った。微分、積分ではあるが、三角関数を根底に置いたものであった。 今また、私は、遊びたいと思っている。 でも、本当なら、もうちょっと前にその世界に入っていたのだが、イヤホンの世界で、調べまくっていた。やっと、今日、私の好みのイヤホンを注文した。 後は、それが来るのを待つだけだ。 今日の、NHKの午後7時半からの放送は、非常に面白かった。確か、時間に関係する遺伝子の話だったように思う。このような発想をいろいろ放映してもらいたいものだ。 そして、これからは、しばらく、私はSTELLAで遊ぶつもりだ。 勝手に退職した後、本当にいろいろ遊ばせてくれているし、隠居を楽しませてくれているし、今、生き生きさせてくれているのだろう、これこそがと、感じて、日々を過ごしている。 2012年 04月 13日
いつもは、一ヶ月に一回ぐらい山に行っていたのに、今回は、二ヶ月ぶりくらいだ。 どうして、こんなにも間が開いてしまったのだろう。 どうも、二つのことが原因していたらしい。 一つは、歯槽膿漏のため、入れ歯が合わなくて、歯医者に駆け込み続けていたことだ。 もう一つは、マクロプログラムを作るのに、はまっていた。 入れ歯も、マクロも一段落ついたので、久しぶりに山に行ったら、前回の山歩きから、二ヶ月ほど経っていた。 今は、桜の季節だ。でも、毎年、桜をデジカメで撮っても、見た目のきれいさは表現されていない。 それで、今回も撮ってきた写真を、パソコンに最初から付属していた修正ソフトで、修正してみた。なかなか、きれいに修正された。全くの、素人的な初歩的修正ではあるが。 それで、それらをアップする。 山で写したもの、ウォーキング中に近所で写したものだ。 カメラでは、空の色と、淡い色との関係で、淡い色のきれいさはカメラには写りにくいらしい。テレビでも、本当ならきれいなはずなのに、桜の画面は、あまりきれいには放映されない。これは、私のデジカメの問題ではなく、カメラ全体の問題なのだろう。 それで、今回、写した写真をパソコンのソフトを使って、修正してみた。なかなかきれいにできあがったから、アップする。 ところで、久しぶりに山に行ったら、息切れはなかったが、足も腰もがたがたの感じだった。 翌日のウォーキングでは、歩き方はなかなか力強い歩き方に変わっていた。 こんなものらしい。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2012年 04月 02日
還暦を超えると、教科書には出てこないようないろんなことがあるようだ。たぶん。なぜなら、インターネットで調べても、出てこないから。 私は、歯槽膿漏で、かなりの歯を抜いてもらって、ある意味、総入れ歯状態だ。でも、その状態の中で、変な歯がレントゲンでは写っていた。それが、どんどん表に出てきて、歯医者さんでは、それを気にして、抜くことを考えていた。私は、ほかの歯ほどは邪魔をしていないから、抜かないでほしいとお願いしていた。 その間も、何本歯槽膿漏のため、抜いてもらっただろう。 しかし、いよいよ、変な歯は表に出てくるようになった。これは、どうも、正式な呼び名としては、過剰歯というらしい。それが、この年になって、生えてきたらしい。 それも、歯槽膿漏で、まともな歯をどんどん抜いてもらっているのに。 インターネットで、過剰歯の抜歯を調べていると、いろいろ恐ろしいことが書かれている。 歯医者さんでも、それを早く抜いた方がいいという歯医者さんと、問題になってから、抜いても遅くはないという歯医者さんとがいた。そして、抜くときは、口腔外科がいいというようなことも書かれていた。 こういうのを読むと、どんどん怖くなってくる。 それで、私は、その歯が、入れ歯との関係で、悪さをしていないから、今しばらく待ってほしいと言ってきた。 ほかの歯との関係で、入れ歯を緊急に調整してもらっていたが、それが良くなってきたとたん、過剰歯が歯ブラシで磨いていると、横には揺れていたが、縦にも揺れ始めてきた。 そして、昨日、急にその歯は抜けてしまった。過剰歯でも抜けることがあるらしい。 最初は、レントゲンで、影が映っていた。そのうち、その歯は顔を出すようになった。 どんどん、その顔は大きくなっていった。 それから、触ると、左右に揺れるようになってきた。 そして、ついには、上下に揺れ始めた。それで、歯医者さんに言ったとき、あのおかしな歯は上下にも揺れるようなったのですがと、尋ねてみた。それじゃ、次回抜きましょうというにことになった。 次回は、いつでもいいということなので、一週間後にした。でも、その後、三日後に、歯を磨こうとしたとき、ころっと、抜けてしまった。 こんなことって、あるのだろうか。 インターネットでは、書かれていない。 でも、現実あった話だ。これが、すべてだとは思わないが、このようなこともあるらしい。事実だから。 それで、私の心配事の一つは消えた。 この年になると、心配事はどんどん多くなってきている。 2012年 03月 23日
誰しも、努力の目標として、上達を一つとして取り上げる。 この前上達について、このブログで書いた。 この前、上達について書いてから、もう少し上達についての私の洞察が進んだので、書くことにする。 私は、今職人として生きているが、でもその職人の内容は、プログラミングの世界だ。 上達とは、一般には、技術力の側面だ。音楽の世界、それは、楽器の使い方であり、技術である。 職人の世界では、目的の物作りの技術力である。 そして、プログラミング。これが、微妙に、昔の世界とは異なっていることに気づいてきた。 プログラミングによって追求するものは、その結果になる作品である。これは、職人や芸術家によって作り出される作品、製品である。しかし、プログラミングの世界では、できあがったプログラムは、まさに、物作りのための道具作りであって、コピーが簡単にできる。 作られたものは、作品ではあるが、芸術、従来の職人によって作られた、その一点のものとは異なっている。まさに、金型作りの職人と共通するものがある。コピーができる。何度も使えるという、そのような作品である。 まさに、一般的な、職人や芸術家による作品と、技術の向上と呼ばれる上達の両面を持つ世界なのだろう。 一つの作品としてのプログラムを作ると、それはお道具を作ったということで、様々な目的のものを作るために役立つ。 作品作りなら、その一点の作品をどんどん積み上げていくことができる。これは、その作品においては、努力量と全く比例する関係である。 しかし、技術の向上というときには、その技術力は、段階的な向上になる。 その中間的性質が、プログラム作りであり、金型作りなのだろう。そして、その向上の性質は、段階的ではなく、努力量に比例するものらしい 面白いもので、昔から、よく私は変わり者と言われてきたが、メインにおいてはあきらめを知らない人間なのかもしれない。 三日坊主を勧めてきた私だが、いったん出会えば、そこには終わりはないらしい。 進めば進むほど、分からないことが出てきて、面白い世界が私の中では展開しているらしい。と私は一人、妄想している。 世間の評価は私には分からない。 今の現実は、世間の評価で、その人の存在価値が決められているが、そのことについては私には分からない。 でも、私は、私一人の世界で、私自身が、上達、進んでいることを感じているし、そこに関しては、妄想であっても、信じ続けたい。 2012年 03月 20日
私は今、還暦後の悠々自適の生活なのだろうか。 今まではそう思っていた。 でも、今は、もしかしたら、今職人をしているのかもしれないと思うようになってきた。ただ、職人による生産物が、お金につながっていないだけなのかもしれないと思うようになってきた。 そう、私は毎日、職人として仕事をしているようだ。そう、私は毎日仕事をしているらしい。しかし、できあがった物はお金にはつながっていない。すなわち、売れないということだ。だから、私は自分を無職ととらえているのかもしれない。 こういうことだってあるだろう。赤字の会社はたくさんあるはずだ。 私も赤字の会社と同じで、赤字の会社で働いている人たちは仕事をしていないかというと、そうではないはずだ。 このように思うことで、最近元気が、昔と同じように湧いてきつつある。 今、私は仕事をしている。趣味の世界で、時間をつぶしているわけではない。 ボランティアで、人の役に立つということはしていないが、それでも、職人として、仕事をしている。 ただ、作り上げたものが売れないだけだ。 このように考えることができるようになってから、せっせと、エクセルでのマクロプログラムを書き続けている。 どんどんたまって、私にとっては、面白い世界がパソコンの画面の上では展開されている。 しかし、話は変わるが、上達というテーマがある。 今、マクロを書く以外に、二つのことを同時並行して、毎日している。一つは、楽器である。 でも、楽器の上達は、エクセルのVBAと違って、やればやるほど、上達するというものではないらしい。段階的に上達するらしい。 その段階というのは、上達ということを忘れた頃に、一段階上がるというのが、今の私の楽器の上達プロセスのようだ。 でも、マクロプログラムは、できあがったものは、そこに残り、次回には、そのマクロを基礎にして、積み上げていくことが、着実にできる。だから、追求するものを目指すマクロはどんどん着実に積み上がっていって、目指す目標に直線的に近づいていく。 このような上達というのを常識的には、上達と考えていたが、現実の上達は、努力量とは、厳密な形では比例しない。段階的である。 しかし、プログラムの世界では、上達、あるいは目標への接近は、厳密な意味で、努力量と比例している。 だから、プログラムを書くのは非常に気分のいいものである。 簡単なマクロを書く仕事を請け負って、お金につなげようかとも妄想的に考えてしまうこの頃である。 なせばなるとは、まさに、努力量との関係で結果は来るということを意味しているのだろう。 しかし、ほとんどの現実は、努力量と、厳密な意味では相関していない。大まかな意味では相関しているが。 最近、パソコンに人間の思考パターンを要求してみた。それなりに、できあがったようで、人間と同じように、苦労しながら答えを見つけ出している姿を画面上で見ることができるようになった。 なかなか面白い。パソコンだって、苦労しているのだ。 でも、面白いことだが、パソコンは、電気を流している限り、探し続ける。人間では、疲れ果ててしまうのだが。 これからは、見た目、人間と似たような姿をパソコンにもしてもらいたいと思っている。 それを見ていると、パソコンも頑張っているのだと、なぜか同情してしまう。そうすると、私も頑張ろうという気分になってくる。 勝手な人間の思い込み的見方だろうが、でも、そう思ってしまう。そのような、プログラムを少しは作ってみたい気分になっている。 2012年 03月 14日
マスコミ、評論家、どんどんあおりますね。 まあ、今こそ活躍時だということなのかもしれない。 人の心が動揺しているときに、活躍する人たちなのかもしれない。 そして、あおり、あおり、人からの注目を集めているのかもしれない。 そんなことは、横に置いて、今日感じたことは、市民運動の人たちの活動内容には共感するが、市民運動をしている人たちは、現実のメカニズムよりも、人との関係性に生きているらしいということである。 だから、彼らは、人との関係性での論争には異常なくらい強い。そして、そこ出身は、菅さんだ。 戦後、戦争責任が問われ、エイズでは、何もしなかったという、責任が問われた。あの人は、責任を問われないのだろうか。 アメリカの前大統領のブッシュ大統領の責任は問われないのだろうか。それぞれ、見方によっては、犯罪者だ。 菅さんが総理大臣の時、あの震災と原発問題に対する対処の仕方に、少なくともそれなりの評論家は、誰が総理大臣でも、あの程度しかできなかったと言っていた人たちには、今、誰も批判を受けていない。 これも、責任問題が問われてもいいだろうと思う。それくらい重い部分を支えているが故に、評論家として、世間から信頼されているのだろうから。 まあ、のど元過ぎれば、ということなのだろうか。 「責任」「責任」という言葉が、多く言われているが、「責任」という言葉の中身は、いかにいい加減なものなのか。それは、市民運動の人たちにも私は言いたい。今では、大きな顔をして、我々こそが正しいのだという姿で、テレビに出ている。そして、そのテレビに出ている姿は、腕を組んでいたり、髭を生やしていたり、ちゃらちゃらした服装で、そのようなめがねを掛けていたり。 態度、姿、行動の仕方は、その人の内面を表しているものだろう。 だから、私、おじさんは、今でも、怒っている。そして、それこそが、だめな私、おじさんではあるが、学生時代のあの偉そうなリーダーシップをとった人たちを思い出す。私も学生運動はしていた。 そこで私は言いたい。私は、人との関係ではディベートは全く苦手であり、能力もないことは、この年まで生きてきて、はっきりと分かっている。でも、客観的データのすごさもはっきりと分かっている。また、それぞれは、全体との絡みで、データは意味を持つこともはっきりと分かっている。これは、経験の積み重ねだろう。 今は、てんでばらばらに得意分野から、これこそが最高だと言い張っている状況に、日本はなっているように思えてしようがない。 どこに焦点を当てるかで、正しさは変わる。ここにおいては、全体的な見方が、問題になってくる。これこそが哲学と言われるものなのだろう。 その上に、それぞれの領域でのデータ、経験がものを言うのだろう。 今、まさに、群雄割拠というような、自分たちのデータが最高だと言い合っている状況のように思えてならない。 データは当然必要である。データなしで喋るのは、哲学の世界ではそうだった。でも、哲学で有名な人たちは、自分の経験をデータとして、展開していたと私は思っている。 今では、自分の関心のあるデータを中心に据えて、すべてのことに自信満々というのが、市民運動のように思えるし、また、それと対立する、国の考え方にもそのようにも思える。データを基本と置くためには、哲学がほしいはずなのに、データを重んじる人たちは、哲学が弱く、哲学の強い人たちは、データに弱い。 そして、それぞれの人たちが、自分たちが正しいと、腕を組みながら、堂々とした髭を生やしながら、言い合っているように思える。 マスコミは、自信のある人たちを取り上げて、自分たちの宣伝材料に使っている。 それぞれは、それそれぞれを生きているようだ。 今日のおじさんは怒っている。 まあ、しょっちゅう怒っているが、今日もまた怒っている。 怒るから、元気が出るのだ。 震災に遭った、東北の人たちは、もっともっと怒ってほしい。それは、現実を混乱させるかもしれないが、その人たちのトラウマを発散させるだろう。PTSを減少させるだろう。 東北の人たちは、関西出身の私から言わせれば、耐えすぎ、感謝しすぎのように思う。 でも、あまりにも強い怒りが出されると、私もたじたじになってしまうだろうが。 < 前のページ次のページ >
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