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<  2012年 02月   >
  • やはりこだわり続けている、「こだわり」と「とらわれ」
    [ 2012-02-25 23:01 ]
  • 久しぶりに山に行ってきた。山はあるから登るのではないように思う、日本人としての私には。
    [ 2012-02-17 23:09 ]
  • 今日、新しい一太郎のワープロソフトが手に入った
    [ 2012-02-11 23:13 ]
  • 私には、一日一度の至福の時間がある
    [ 2012-02-06 22:33 ]

2012年 02月 25日
やはりこだわり続けている、「こだわり」と「とらわれ」
「こだわり」「とらわれ」って、人間にとっては、すごく意味のあるキーワードなのかもしれない。

私は、「こだわり」「とらわれ」というキーワードに、とらわれながら、こだわっている。

そして、それじゃ、「こだわり」と「とらわれ」の境界線はいったいどこにあるのかと聞かれると、答えることはできない。非常に微妙な、境界線のように思える。

今世間で話題になっている、マインドコントロール。それと、キリスト教、仏教のような宗教との境界線はいったいどこにあるのだろうか。それと同じ意味合いを持っているように思える。宗教は人間にとってはすごく大事なものである。命までをもかけることのできる大事なものである。生きるという意味を教えてくれるから。

それでも、私は、「こだわり」と「とらわれ」の内容にとらわれ、こだわっている。

このような境界線の問題は、これだけではなく、様々にあるように思う。でも、その微妙な違いからは、明らかな違いが出てくるようだ。
いったい、その違いは、何によるものなのだろう。そこが、根本的な問題だろう。

「こだわり」とは、主体的だと、一般的に言われる。「とらわれ」とは、被主体的だと一般的に言われる。
でも、この違いは微妙である。
その証拠に、文化という言葉がある。
文化とは、「世間」という言葉に通じるものがある。
「世間」に刃向かうことは、恐ろしいことだということがある。それに対して、自分の意見を持つことはすばらしいと言う。
そしてまた、あの人は、変わり者だという言葉もある。世間に刃向かえば、変わり者になってしまう。

「こだわり」とは、主体的考え方を大事にした姿を表す言葉だ。「とらわれ」とは、主体性がいかにないかということを意味する言葉であり、悩みを作る出す、大きな原因の言葉でもある。

片や、悩みであり、片や生き生きしている姿でもある。
でも、それらの言葉のプロセスは、非常に似たプロセスから出てくる。
これらを分けているのは、それこそ、その人が住んでいる周りの人たちのとらえ方なのかもしれない。
そして、人は悩み、片や人は元気いっぱいに生きているのかもしれない。

by hohofushi | 2012-02-25 23:01 | つれづれ人生 | Trackback
2012年 02月 17日
久しぶりに山に行ってきた。山はあるから登るのではないように思う、日本人としての私には。
今日、山を歩きながら、微妙に考えていた。深く考えるほどは、エネルギーはなかった。限界ぎりぎりのエネルギーで歩いていた。
それでも、一人で歩く山は、微妙にいろんなことが浮かんでくる。しかし、ネガティブなことは浮かばない。疲れ切っているからだろう。

今日感じたこと。それは、日本における修験道、そして、山伏だ。山伏の人たちは、集団では歩くが、歩きながら、話をしている場面は見ていない。集団ではあるが、歩いているときは、一人だろう。たぶん。

私は今日歩きながら、肉体的に疲れてくると、どんどん、周りの物理的雰囲気になじんでいく自分を感じていた。
そして、山の中を一人で歩いていると、恐ろしいほど、静かだと感じていた。
恐ろしいほど静かだった。自然の静かさだった。

どんどん、自然の静かさの中にはまっていった。
これは、座禅とどう違っているのだろうかと。

山の中のあの感覚は、修験道であり、山伏のように思う。もし、途中、滝があれば、打たれたい気分になっていただろう。
座禅は、確かに、大木の下で座禅という瞑想の世界に入るが、それでも、自然との一体感は求めていないのだろう。たぶん。

私は今日は山を歩きながら、肉体的疲れと同時に、山の中のひとりぼっちの静かさと、それによる静寂な気分に浸っていた。
これは、日本的雰囲気とインドの違いだろう。
日本人は、文化的に、本当に自然と近い生活をしているのだろう。

修験道、山伏。それは、神道とは呼ばないかもしれないけれども、日本の古来の文化の根底の宗教なのかもしれない。

今思うと、ホラ貝を吹きたかったぐらいだった。
でも、今、私は尺八を吹いている。

そうそう、思い出すが、この前、中古の尺八を買いに行ったとき、隣にホラ貝を置いてあった。あれを買えば良かったのだろうか。

by hohofushi | 2012-02-17 23:09 | つれづれ人生 | Trackback
2012年 02月 11日
今日、新しい一太郎のワープロソフトが手に入った
それで、ブログを書く。
入力具合はどうだろう。今までと比較してみたい。
でも、それは、今日のブログには書けないだろう。まだまだ使い勝手はわからないから。

私は今日も生きている。
たぶん明日も生きているだろう。昨日も生きいたから。今日も、生きている。

毎年毎年あちこちのソフトはバージョンアップされいる。
いつも、バージョンアップ内容は、私からすれば、誇大広告だ。だから、数年に一度パージョンアップするようにしている。

四年ぶりにパージョンアップした、一太郎。
使い勝手はというと、今使っている範囲内では、まあまあ、それなりのように思える。

話は全く変わるが、私はどんどん隠遁的雰囲気に入るつつあるようだ。
でも今のところ、寂しさはそこまではないらしい。いずれは、来るのかもしれないが。

私という生物学的存在をリードしている私。
両者の関係は、大事にはしようとしているが、私という生物学存在は、今私に言っている。

頭の中にある私、体の中にある私。二つの私を抱えつつ、両者の調整をしつつ生きている私。

いろんな人の話を聞くたびに、この人は、頭の存在を大事にしている、この人は、体の存在を大事にしていると感じる私である。

それじゃ、私は、どちらの存在こそが大切かと聞かれれば、それは、今の私にはわからない。

こうやって、迷っているのが私だと、私のアイデンティティを勝手に思っている。これでいいのだろう。

私は、マインドコントロールという、わかったような言葉は嫌いだ。
最後に付け足しておきたい。
今、またもや、マインドコントロールは良くないとういことが、テレビで流されている。それなら、説明してほしい。マインドコントロールとはなんぞやと。そして、宗教とマインドコントロールとの違いを。
宗教のすごさと、マインドコントロールのろくろくでもなさを説明してほしい。

by hohofushi | 2012-02-11 23:13 | つれづれ人生 | Trackback
2012年 02月 06日
私には、一日一度の至福の時間がある
それは、今。

テレビでは、寝酒は良くないと言われている。
不眠のための寝るためのお酒のことだ。
寝酒は、睡眠の深さを浅くすると言われている。
でも、今の私には寝酒こそが、至福の時間だ。
もともと、私にとっては不眠のためのお酒であった。
でも、今では、至福の時間になっている。

誰しも、至福の時間って、必要じゃないのかなと思う。
人に迷惑がかからなければ、大事なことだろう。

そして、思うことがある。
人は、ストレス、ストレスと言うが、ストレスの本当の凄さを知っている人は、ほとんどいないだろう。

なぜなら、ストレス量は今のところ、数値化出来ていないから。
数値化の試みはいろいろあったように思うが、いずれもストレスという一般化には対応出来ていないようだ。

もし数値化出来れば、タバコの量の弊害どころか、炭水化物の弊害どころか、もっともっと、スレトートに影響を与えるものであることは証明されるだろう。

しかし、ストレス量という量を測定するのは至難の業だろう。
私の個人的な考えによれば、それこそ、ノーベル賞ものだろうと思う。

脳梗塞の私が、至福の時間として、アルコールを選んでいるのだから、世間の常識に反発しているということになる。でも、やはり、私には、至福の時間はほしい。人に迷惑さえかけなければ。

このことは、人に勧めていいのか、私一人が、密かに隠しながら、持っているのがいいのか分からないが、それでも、今日は、ブログに書くことにした。

by hohofushi | 2012-02-06 22:33 | つれづれ人生 | Trackback